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横浜市保土ケ谷区には、多くの歴史が残り、そうそうたる歴史上の人物が並びんでいます。また、保土ヶ谷といえば東海道の宿場町。保土ヶ谷宿は東海道では江戸から品川・川崎・神奈川に次いで4つ目の宿場。この宿駅制度ができて、平成13年がちょうど400年目でした。他にも数々の歴史が残っている保土ヶ谷区。保土ヶ谷区について詳しく知りたい!歴史が好き!という方、のんびりと歴史の散歩道を歩いてみてはいかがですか? |
■横浜市保土ヶ谷区今井街道・今井城址 |
保土ヶ谷区今井町の中央部を走るバス路線。今井街道は昔から今井町のメインストリート。
街道沿いの『金剛寺』の裏手に『城山』と呼ばれる丘があり、南北300mにわたる細長い丘の南側と北側、中腹の平地部分には曲輪(くるわ・敵から守るための城郭を形成する基本的構想)が形づくられています。
『城山』の南端には『城山稲荷』がまつられており、昭和30年に『城山稲荷』のほこらの南側、ツゲの木の根元から常滑焼の大きな甕が掘り出されました。その中には、約400kgもの大量の古銭が入っていました。出土した古銭は鎌倉期から戦国時代にかけて使用されたもので、中国からの渡来銭(唐銭、南宋銭、北宋銭、明銭などが主でした。
現在では『城山稲荷』の境内に、『今井城址』と書かれた記念碑が建てられています。 |
■横浜市保土ヶ谷区西谷浄水場 |
今から114年前、初めて横浜の水が浄水場でろ過され、水道から出るようになりました。
明治16年、神奈川県がイギリス人パーマーに近代水道をつくるための調査を依頼し、明治20年に日本で初めての鉄管による水道が完成。現在の津久井町から野毛山配水池まで太い水道管が引かれました。今でもそこは『水道道』と呼ばれています。その後、大正4年に『西谷浄水場』ができました。 |
■横浜市保土ヶ谷区御所台の井戸 |
保土ヶ谷区には、保土ケ谷税務署脇から横浜清風高校方面へ向かう『かなざわかまくら道』があり、その途中の急な坂道(磐名いわな坂)を上ると、右側に四阿のあるひっそりとした一角があります。ここが政子の井戸とも呼ばれる「御所台の井戸」。
政子とは、頼朝の妻で、この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあり、この一帯が政子の所領する土地だったのではないかという説もあります。 |
■横浜市保土ヶ谷区新井新田 |
保土ヶ谷区の新井新田は、現在の新井町の位置にありました。「風土記稿」という書物の中では昔は幕府の領土だった林を新井忠兵衛という人がに開発してから新井新田と呼ばれるようになったと言われています。
傾斜地で生産性の低い畑が多かったこの地で、明治7年、伊勢四日市の黒崎平七がお茶の栽培を始めました。
茶畑があった名残りとして保土ヶ谷区の地元新井小学校の校章は、お茶の葉と花が図案化されたもので、今でも校内にはお茶の木が植えられています。 |
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■横浜市保土ヶ谷区権太坂 |
箱根駅伝で有名な権太坂。保土ヶ谷にある権太坂は駅伝ランナーにとって難所として知られています。
駅伝のコースとは離れた場所に、元町橋付近から県立光陵高校の前を通り境木中学校付近へと通じる坂道があります。ここが旧東海道の権太坂です。
今では舗装されたなだらかな坂ですが、当時は傾斜のきつい坂が、一番坂・二番坂と続いていました。特に一番坂は元町方面から見上げると約40mあり、相当厳しい坂でした。
坂の名前の由来は、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説があります。 |
■横浜市保土ヶ谷区北向地蔵 |
国道1号から横浜清風高校方面へ、(いわな坂を上りきった交差点の脇に『北向地蔵』があります。
この北向地蔵は、この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことでした。それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したそうです。その後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので『北向地蔵』と呼ばれるようになりました。
平成元年12月には横浜市の文化財に登録されています。 |
■横浜市保土ヶ谷区帷子川 |
保土ヶ谷区にある帷子川は横浜港に続く全長17kmの二級河川です。
江戸時代、帷子川河口には舟着場があり、潮の干満を利用した舟運の拠点として、商人が薪や炭を江戸方面に送るなどにぎわいを見せていました。
以前は、川の蛇行が激しく「暴れ川」と呼ばれていましたが、河川改修や分水路の整備が行われ、多くの区民の憩いの場になっています。 |
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